2012年5月6日 礼拝説教
復活後第4主日 ヨハネ15:1〜10 「愛にとどまる」 田島靖則
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である・・・わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
主イエスの語られたたとえによれば、父なる神は農夫であり、キリストはぶどうの木で、私たちはぶどうの木の枝だということです。私たちが「木の枝」だとすれば、その「木の幹」であるキリストとつながることで、農夫である神様のお世話を受けることが可能となるわけです。
家族の繋がりを、「木」にたとえるという習慣は、家系図を「ファミリーツリー」と呼んで、描かれた木の上に家系図を書いていくという欧米人独特のものとも思えますが、その起源はやはり聖書にあるようです。クリスマスによく読まれる、イザヤ書11章1節には、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」と語っています。旧約聖書の昔から、人の成長と植物である木の生長を重ねて考えることはあったのです。
使徒パウロは、ローマの信徒への手紙11章17節以下で、「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、
折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」と述べています。パウロは、ユダヤ人を「栽培されているオリーブ」にたとえ、ローマ人を「野生のオリーブ」と呼んでいます。オリーブは、紀元前3000年頃にはすでに栽培されていた植物で、樹齢3000年にもなる長寿の木もあることから、家系図にはふさわしい植物と見られたのでしょう。
ヨハネによる福音書の記述では、イエス様は人と神とのつながりを、「オリーブ」ではなく「ぶどうの木」にたとえられましたが、そこにはもちろん深い意味があったはずです。食品化学を専門とされる河野友美さんという方が、『食べものからみた聖書』という本を書かれていますが、その説明によりますと、「このブドウという植物であるが、植物の中で、これほどしぶといものは少ないと思われるもののひとつである。とくに、よいワインのできるブドウほど、そのしぶとさをもっている。」というのです。ブドウは、貧弱な土壌で育つ木で、その木の根は10年近くかかって地下25メートルも入り込むのだそうです。もちろん、地下水が豊富で水位が浅い土地に植えられたブドウは、あまり根を伸ばさないそうですが、根の浅いブドウの木は、決して良い実をつけることがなく、水分が多く糖度の低い実ばかりがなるのだそうです。
つまり、過酷な環境に育ったブドウの木でなければ、決して良い実を実らせることはできないのです。さらに、根の深いブドウの木は、干ばつなどの異常気象にも、なかなか枯れることはない。
加えて、良いブドウの実をならせるためには、冬になる前にかなり思い切った剪定をほどこさなければいけないそうです。この思い切った剪定が、さらに強い根を張ることにつながるといいます。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」
「ぶどうの枝」がその木につながっていることは、決して楽なことではないのです。農夫は「ぶどうの枝」を剪定します。「せっかく伸びた枝を、なにも切らなくても」と私たちは思うのです。しかし、剪定を受けなかった枝の運命は、実はみじめなものです。寒い冬の間に、伸びすぎた枝は凍って、春になっても実のなる枝は残らないんです。だから、私たちはたとえ剪定されても、ぶどうの木にしっかりとつながっていなければなりません。
「ぶどうの枝」も辛いですが、「ぶどうの木」はもっと辛い。貧弱なやせた土地に25メートルもの根を伸ばし、そこから少ない水分を吸い上げて「ぶどうの枝」を支え、じっと寒い冬を耐えます。寒い冬の間、農夫はただ祈りつつぶどうの木を見つめ、その枝に目を注ぐのです。
これこそが、聖書の伝える「人間と神様とのつながり」です。
私たちが生きるこの日本社会は、一見すると「豊かな土地」かもしれませんが、それはあくまで物質的な意味での「豊かさ」であって、一皮むけば毎年3万を超える人たちが自ら命を絶ち、その数倍から数十倍の人たちが、自らの命を絶とうと試みている「貧弱なやせた土地」、「精神的荒れ野」です。「自分は根無し草」だと思っている人が数え切れないくらいいる国です。
聖書はそんな私たちに、「しぶとく生きること」を教えています。「ぶどうの枝」として、剪定を受けて、寒い冬にもじっと「キリスト」という幹につながって耐え忍び、少ない水分をたくわえて春を待つのです。
根の浅い隣の畑のぶどうの木をうらやんではいけません。根が浅く、剪定も甘いぶどうの木には、甘くて味わい深い実はならないのです。
困難を耐え忍ぶ者には、次のような言葉も与えられています。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」
キリストの言葉が、私たちの内にいつもあるならば。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」
隣の畑は気にせずに、ただキリストの愛にとどまる者でありたい。
2012年5月 6日 14:33 | コメント(0) | トラックバック(0)